私は昭和育ちです。
貧しくとも皆が繁栄を夢見て前向きに生きていました。
どの家庭も働くことや子育てに精一杯な時代でした。
私が小学生の時のある出来事がいつまでも心に残っています。
私の綴った学校便りの中で最も反響の大きかった記事を紹介します。
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私事で恐縮です。
私は東京の下町で育ちました。
カラーテレビも電話も、私が小学校4年生の頃に、我が家に登場しました。
友だちの家よりも若干遅めでした。
私の母はちょうどその頃、PTA役員をやっていました。
我が家に導入されたばかりの電話がある時期、毎日のように鳴り響いていたからよく覚えています。
狭い家だったので、電話での会話が嫌でも耳に入りました。
「歓送迎会」とか「謝恩会」とか「成人文化」とかのPTA用語を頻繁に耳にしました。
母は色々な連絡調整を電話でしていたのでしょう。
母は、「字」を書くことを極端に嫌がりました。
字を知らないからです。
字形も滅茶苦茶でした。
母は、戦後の混乱した時代に幼少期を過ごしました。
その上、稼業が床屋だったこともあり、親からは、家での手伝いを義務づけられていました。
小学校時代に自分用の教科書もなく、ろくに学校にも通えなかったので、当然「字」はダメでした。
そんな母が、たった1度だけガリ板と鉄筆で文字を刻み、プリントを作成して刷りました。
PTA関係の何かの案内文だったと思います。
全校配布のプリントです。
PTA役員の責任において、どうしても避けられない仕事だったのでしょう。
きっと母はよほどの覚悟を決めて、相当に時間をかけて、苦手な「字」で作成したことでしょう。
それは、私にとって事件でした。
担任の先生が、私のクラスにもそのプリントを配りました。
私は内心、誇らしげにそのプリントを眺めていました。
私のすぐ後ろの席に座っていた優等生の女の子が大声で言いました。
「へったくそな字!」
プリントを手にしたまま、私は唇を噛みしてうつむいていました。
あの時の気持ち、今でも忘れません。
別に、その女の子のことを恨む気持ちではありません。
ただ、母のことが悲しかったのです。
何でも上手に出来て頼もしい。
そんな「母親像」が、その時、私の中で崩れ去ったのでした。
無念でした。泣きたいくらい悲しかったです。
不思議なことに、そのとき崩れた「母親像」の中から別の「母親像」が生まれました。
「きっと、自分たち子どものために、恥も外聞も捨てて、一生懸命生きている母」
子供心にも、自分の中でそんな母親像ができたのでした。
保護者の皆様の子育てにおける努力や苦労は、必ずお子様の心に何かを残しています。それは形としては見えないかもしれませんが、尊い尊い何かです。
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